開拓期から現代へレールつなぐ 士別~名寄間 鉄道開業120年

名寄は「鉄道のまち」に 気動車導入、郊外に仮乗降場開設


1941年(昭和16年)10月10日、深名線が深川から名寄まで全線開業したことに伴い、宗谷本線(旭川~稚内間)、名寄本線(名寄~遠軽間)と合わせて、東西南北に鉄道が伸びるようになった名寄駅。終戦直後の45年(昭和20年)8月25日、稚泊連絡船(稚内~樺太・大泊間)が運航停止(事実上の廃止)したことに伴い、46年(昭和21年)4月1日、札幌鉄道局稚内管理部は道北各線の管理条件が良い名寄に移転し、名寄管理部となった。
その後、46年9月に名寄建築工事区、47年(昭和22年)4月に名寄電務区、12月に名寄鉄道公安所、48年(昭和23年)には名寄電力区が設置され、名寄が「鉄道のまち」として象徴されるようになった。
49年(昭和24年)2月、名寄駅舎が増改築され、9月には列車運転と構内操業を担当する「構内駅」を分離し、従来の駅は旅客と貨物の取り扱いを担当した。
49年6月1日、日本国有鉄道(国鉄、JNR)が発足し、独立採算制の公共企業体となった。当時、名寄管理部は宗谷本線の和寒~稚内間、名寄本線の名寄~上興部間、深名線の北母子里~名寄間をはじめ、北見線(61年4月1日に天北線と改称)の音威子府~南稚内間、興浜北線の浜頓別~北見枝幸間、天塩線(57年11月6日に羽幌線へ編入)の幌延~遠別間を管轄していた。
49年9月20日に大幅な組織改編が行われ、公共企業体としての効率的な運営を目的に管理部を廃止し、鉄道局と現場を直結した。名寄を含めて道内の管理部は全て廃止され、札幌、釧路、旭川の3鉄道局に集約した。鉄道局は50年(昭和25年)1月10日に鉄道管理局と改称され、名寄には地方営業所が設けられた。なお、青函鉄道管理局は8月1日に札幌鉄道管理局から分離する形で設置された。
その間、47年には名寄保線事務所を2階建てに増築改修した国鉄名寄総合庁舎が完成。旭川鉄道管理局名寄営業所として運輸長室、施設監査主任、鉄道公安室、車掌区、保線区、建築区、信号通信区、電力区、電務区の現業機関をはじめ、理容店なども入った。
車両関係では50年2月10日に名寄客貨車区が開設された。53年(昭和28年)ごろからディーゼルカー(気動車)の配車運動が起こり、55年(昭和30年)8月20日に旭川鉄道管理局にレールバス(小型の気動車)が配置され、深名線で運行を開始した。12月1日にはディーゼルカーが導入され、宗谷本線、北見線、天塩線で運行を開始。12月25日からは名寄本線でレールバスが運行を開始した。
しかし、レールバスはエンジンの馬力が小さく、レール上の雪を跳ね飛ばせず、立ち往生したこともあり、冬場はSLに戻して運行することが多かった。
気動車はSLよりスピードが速く、停車もスムーズであるため、運行本数や停留場を増やすことが可能となり、郊外には仮乗降場が相次いで開設され、55年12月1日に日進、56年(昭和31年)7月1日に北星、59年(昭和34年)11月1日に智北の仮乗降場が設置された。日進と北星は59年11月1日、駅へ昇格した。また、東風連駅が56年9月20日に開設され、沿線住民の利便性が大きく向上した。なお、智北仮乗降場は国鉄分割民営化の87年(昭和62年)4月1日に駅へ昇格している。
仮乗降場の設置に当たっては、地域住民たちが土地や資金、労力を提供しており、列車が近所に停車することの喜びは大きかった。
その後も利便性アップのための取り組みは続き、都市間輸送を主とした準急列車や急行列車が運行されるようになった。
(続く)

1960年ごろの名寄駅