自動車が普及、鉄道輸送は斜陽化 合理化策が相次いで打ち出される
急行列車の運行開始や名寄駅のコンテナ基地設置など、旅客、貨物輸送ともに最盛期を迎えていたが、1970年代半ばを迎えると自動車が普及し、取り扱いが減少。鉄道輸送が斜陽化してきた。
そのため、合理化策が相次いで打ち出された。国鉄諮問委員会は68年(昭和43年)9月4日、赤字ローカル線への意見をまとめ、石田礼助国鉄総裁に答申した。国鉄は64年度(昭和39年度)以降、赤字決算が続いていたため、原因となっている赤字線の廃止を検討していたが、同委員会の意見書では具体的な廃止対象83路線が挙げられており、「赤字83線」と呼ばれた。
「赤字83線」には深名線など道内15線区も含まれ、沿線では廃止反対運動が始まった。また、69年度(昭和44年度)からの合理化計画も打ち出され、駅の無人化や廃止、貨物の取り扱い中止などが盛り込まれた。69年4月には全道的な「国鉄赤字線廃止反対共闘会議」が結成され、各市町村に「住民の足を守る会」が発足した。
59年(昭和34年)策定の動力近代化計画で、SLは75年(昭和50年)をめどに廃止されることになり、車両基地は旭川機関区に集約し、名寄機関区は乗り継ぎ基地に規模を縮小しようとする動きが出てきた。地元では規模縮小に反対し、国鉄に陳情活動を展開。国鉄北海道総局と動力車労働組合(動労)北海道本部の交渉が妥結し、名寄機関区は存続されることになった。名寄機関区はディーゼル機関車(DL)基地となり、18両が配置された。
しかし、国鉄は83年(昭和58年)7月19日、全国の機関区、客貨車区、車掌区などの統合を提案した。名寄機関区は86年(昭和61年)11月1日、旭川機関区に統合され、旭川機関区名寄支区となり、規模を縮小。87年(昭和62年)2月には扇形車庫が解体され、「鉄道のまち」の象徴の一つが消えた。
貨物列車は76年(昭和51年)10月、宗谷本線で4本、名寄本線で1本が減便された。82年(昭和57年)11月15日には多くの駅で貨物取り扱いが廃止され(名寄市周辺では宗谷本線の和寒、剣淵、多寄、風連、智恵文、美深、恩根内、咲来、佐久、天塩中川、名寄本線の下川、上興部、西興部、興部)、残るは宗谷本線で士別、名寄、音威子府、幌延、豊富、稚内の6駅、名寄本線では紋別、元紋別、遠軽の3駅となった。さらに同日、深名線の全線で貨物輸送が廃止された。
84年(昭和59年)2月1日には宗谷本線の名寄~稚内間、名寄本線の全線で貨物輸送が廃止され、名寄以北、以東には貨物列車が走らなくなった。86年11月1日には士別駅の貨物取り扱いが廃止された。
荷物の取り扱いも84年2月1日に多くの駅で廃止され(名寄市周辺では和寒、剣淵、多寄、風連、智東、智恵文、美深、紋穂内、恩根内、豊清水、咲来、音威子府、佐久、天塩中川、名寄本線の下川、一ノ橋、上興部、西興部、興部)、残るは宗谷本線の士別、名寄、南稚内、稚内の4駅だけとなったが、士別と南稚内は85年(昭和60年)3月14日、名寄と稚内も86年11月1日で廃止され、荷物列車は姿を消した。
旅客部門でも合理化が進み、名寄市内では78年(昭和53年)12月1日に名寄本線の中名寄駅、82年(昭和57年)3月29日に深名線の天塩弥生駅、86年(昭和61年)3月3日には宗谷本線の智東駅が無人化された。速達列車も急行「なよろ」が84年(昭和59年)2月1日、急行「紋別」も86年(昭和61年)11月1日のダイヤ改正で廃止された。急行「宗谷」は81年(昭和56年)10月1日ダイヤ改正で札幌〜稚内間に短縮された。
さらに、80年(昭和55年)11月28日には国鉄再建法が成立し、ローカル線の廃止が進められることになった。
(続く)

1986年10月5日掲載の名寄新聞
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1987年2月19日掲載の名寄新聞