開拓期から現代へレールつなぐ 士別~名寄間 鉄道開業120年

名寄本線、深名線も開業 名寄が交通の要衝として発展

2代目駅舎になった後の名寄駅前(昭和初期)

士別~名寄間のルート選定に紆余曲折もあったが、1903年(明治36年)9月3日、名寄駅が開業し、「鉄道のまち」として歩みを始めた。
名寄駅構内には、名寄機関庫(36年9月から名寄機関区)、名寄保線区、乗務員詰所が開設された。機関庫には12年(明治45年)時点で3両、17年(大正6年)に6両、20年(大正9年)に9両、24年(大正13年)には14両のSLが配置された。25年(大正14年)には扇形車庫を新築した。
扇形車庫の設置やホーム延長など、構成設備が拡張される中、新設備や街並みと駅舎が釣り合わないとして、駅舎は2階建てへの改築が計画されたが、予算が多く付かなかったため、道内初の「軌条鉄骨駅舎」として27年(昭和2年)11月1日、2代目の駅舎がオープンした。工事では、構造体の鉄骨に古レールを使用し、レンガを貼って壁下の代用とし、その上にコンクリートを塗った。
11年(明治44年)11月3日に名寄~恩根内間が開業し、名寄は南北に鉄道が伸びるようになったが、19年(大正8年)10月20日、名寄線の名寄~下川間が開業し、東へ鉄道が伸びた。
名寄線は20年(大正9年)10月25日に下川~上興部間が開業。21年(大正10年)3月25日に中湧別~興部間が名寄東線として開業し、名寄~上興部間は名寄西線となった。同年10月5日に上興部~興部間が開業し、名寄線として全線開業するとともに、北見・網走方面へのメインルートとなった。北見・網走方面へは従来、滝川から根室本線に入り、池田で網走本線(61年4月1日、池田~北見間は池北線、北見~網走間は石北本線に分割)に移っていた。
一方、遠軽側は15年(大正4年)11月1日、遠軽~社名淵(後の開盛)間が湧別軽便線として開業。16年(大正5年)11月21日に社名淵~中湧別~下湧別(後の湧別)間が開業した。22年(大正11年)9月2日、軽便鉄道法廃止に伴い、湧別線に改称された。
32年(昭和7年)10月1日、湧別線の遠軽~中湧別~下湧別間を編入し、名寄本線となった。しかし、同時に石北線の中越~白滝間が開業し、新旭川~北見間が全線開業となったため、北見・網走方面へのメインルートは石北線(61年4月1日、石北本線に改称、新旭川~網走間)に譲り、名寄本線はローカル線の地位に甘んじた。
37年(昭和12年)11月10日、名雨線の名寄~初茶志内(後の天塩弥生)間が開業し、西にも鉄道が伸びた。41年(昭和16年)10月10日、初茶志内~朱鞠内間が開業するとともに、幌加内線の深川~朱鞠内間と統合し、深名線として全線開業した。
なお、幌加内線は24年(大正13年)10月25日に深川~多度志間が雨竜線として開業。26年(大正15年)11月10日に鷹泊まで、29年(昭和4年)11月8日に幌加内まで、31年(昭和6年)9月15日に添牛内まで、32年(昭和7年)10月25日に朱鞠内まで開業した。その間の31年10月10日、雨竜線から幌加内線へ改称された。
南北に宗谷本線、東へ名寄本線、西へ深名線と十字に鉄道が伸び、名寄は交通の要衝として発展した。このスタイルは深名線全線開業の41年から名寄本線廃止前日の89年(平成元年)4月30日まで続き、名寄が「鉄道のまち」であることを象徴させた。戦時中は出征兵士を送り出す場となり、終戦後の49年(昭和24年)6月1日、日本国有鉄道(国鉄)が発足するとともに、名寄駅は発展を続けた。
(続く)