作家:横尾忠則 出版社:実業之日本社 出版年:2024年
昨年末、辞書を出版する三省堂の発表した新語大賞が、大きな反響を呼んだ。元々は学術的用語だった「言語化」が、一般の人々に広く使われるようになったことから新語として選ばれたようだ。実際に生活していると、確かにSNSなどで目にする機会が多い表現である。
論理的思考力という言葉が市民権を獲得してしばらく経ち、言語化が新語大賞に選ばれたことを見るに、現代の人々はとにかく言葉で説明する行為に強い関心を抱いているのだろう。
グラフィックデザイナー・画家の横尾忠則は、こうした風潮に真っ向から反対する。
「わからないものはわからないでいいじゃないかというのが僕の態度です。人類は全て解明したかのように思っていますが、とんでもないわからないもので満ちあふれているのです。だから僕は絵を描くのです。」(p90)
『飽きる美学』は、彼が「週刊朝日」で連載していたエッセイ「シン・老人のナイショ話」を編集し書籍の体裁に整えたものだ。 本書では、アーティスト横尾忠則の、率直なエッセイストという意外な一面が見られる。ある日絵を描くことに「飽きた」と言って、飽きた状態で描く絵はどうなるか?と問いかけるところから始まり、画家としての日々のルーティーンや運命を受け入れる生き方のスタンスなど、何気ない日常の中にある思索が披露される。
ここでは、積極性や言語化、真面目さなど、今世間で価値があるとされているワードは、ことごとく否定されている。しかし面白いのは、その源泉にあるのは、前衛的なアーティストとしての反骨精神ではないということだ。そこには、あるがままを受け入れるという受動的な態度や、何もしないで「無為」に過ごすという怠惰が横たわっている。「飽きる反対は、意欲的だと思うが老齢になって、まだ意欲があるなんて見苦しい」(p29)と言い、しょうがなしに絵を描いているのだそうだ。
エッセイの中で彼は、度々コンセプチュアルアートに言及する。現代アートにおいて評価される、考えた末に生み出されるメッセージ性は自分とは正反対だという。言葉に囚われているうちは自由ではないとする考え方に、書評の書き手は背筋が伸びる思いだ。横尾本人も坐禅を実践していたように、絵を通して無我へと至る過程があって、その結果として絵ができる。
そこでは、絵を描く「自分」がいるのではない。言語化され得ない、あるいは敢えて横尾が言語化しないような、言語の外にある捉えきれない何かが、彼自身を道具にして絵という形で実体化しているというようにも感じられる。 大仰なテーマや描かれた絵そのものより、絵が彼を動かしている過程へ重きが置かれる。主体性が最も価値のある現代において、主体的な自分ではなく、絵の手段としての自分に着目する在り方はたいへん興味深い。
思考し反省することが日々求められる社会の中で、何でもかんでも言語化する、また言語化できると思い込む姿勢こそ今一度省みられるべきなのかもしれない。
書き手:せを