作家:小川公代 出版社:朝日新聞出版 出版年:2023年
「嫌知らず」という言葉がSNSを賑わせている。嫌だと言う相手に対して「自分は嫌じゃない」と聞く耳を持たない人を指す言葉で、嫌がる女性に気づかない・気づこうとしない男性が特に念頭に置かれる。
埋まることのない男女の溝に関する問題が連日取り沙汰されている現代を、私達はどのように生きてゆくのか。本書は、アメリカの倫理学者キャロル・ギリガンの〈ケアの倫理〉という概念を軸に、様々な文学作品におけるケアのあり方を分析することで、現実の問題へも通じる新たな視座を読者へもたらそうと試みるものだ。
自身の権利を主張する〈正義の倫理〉に対して〈ケアの倫理〉は、個々人に耳を傾けケアすることを重要視する立場である。これまで〈ケアの倫理〉は、良妻賢母的な女性像を想定し女性の搾取を助長してしまうと批判されてきた。 ケアする女性達は自身もケアされるべき立場にあるのに、エッセンシャルワーカーとして医療や介護、保育の現場で労働し、かつその重要性が透明化され社会的に軽視されている現状がある。
著者の小川は、そうした経緯に触れながら、古典的作品だけでなく映画『ドライブ・マイ・カー』やノンフィクション書籍『こんな夜更けにバナナかよ』など近年の話題作も取り上げて、ケアする女性以外の立場に包括的に言及する。古今東西の作品におけるケアする者とされる者を考察すると、二者の不均等性はもちろん、搾取・加害する側の困難な背景などが見出される。男性がケアする側になる作品もあれば、女性が女性に対し搾取する作品もある。単純に男女の問題として二分することのできない複雑なグラデーションが、文学に投影されていることが小川の些細な分析により明白になり、それは現実社会においても今まさに噴出している人々の不満であることも小川は指摘する。
また、小川は、現代社会が基盤とする〈正義の倫理〉や新自由主義、資本主義における、自己主張を美徳とする自己のあり方は家父長的な白人男性の価値観であると批判する。無前提的に肯定されている自己主張の自我は、そもそも主張することの許されない弱い立場にある人々を想定できない。そうした人々に手を伸ばすことができるのが〈ケアの倫理〉であるという。〈ケアの倫理〉では、手助けを必要とする人々にどのような対応をすべきか、相互の対話をもとに現実的な解決を提供できる可能性が、〈正義の倫理〉よりも高い。ケアは一方的にする側がされる側へ施すものではなく、また、 文学作品の考察から、ケアする側も別の面で他者からのケアを必要とするという視点を導き出す小川の論は、現実にある複雑な問題を鋭く捉えているだろう。
現実的な倫理学的観点から文学作品を論じることは、時には時代背景を無視したナンセンスであると批判されることもあるが、本書はそうした指摘を踏まえてもなお、一読の価値がある。私達の抱える生きづらさを冷静に見つめる眼差しが、そこには存している。
書き手:せを